人称代名詞としての「人間」

blogを書きたい気分なので、書く。

といっても、米国の紀行録以外に特段書きたいことがなく、かつそれはあまりにも多くの労力が必要なので、
先日人に言われて気づいたことについて書く。

私は、しばしば三人称代名詞として「人間」ないし「ヒト」「ホモサピ」を使う。

例えば、「XXXはYYな人間である」だとか「人間に会いたい」、「XXな人間がいた」「私はfoobarなホモサピです」のように。

もっとも、身体がパソコンでできているような人々の仲間内では、こういった語用は当然のものとして流通しているので、普段意識する機会はない。

しかし、どうやらこれは一般的な語用ではないようで、しばしば違和感を持った人間が驚いたような反応をする。

実のところ、このある種の 逸脱 は、50%無意識で、50%意識的である。
50%の無意識は、世界のあらゆるagentを計算機かそれ以外かで認識していて、その点で計算機以外をホモサピと呼んでいるだけという話で、私にとってホモサピに見えたものがホモサピであるという、 きわめて素直な 語用である。

他方、意識的に、そのように言葉を選んでいる面というのもあって、これが重要である。

「ホモサピ」とか「ヒト」とか「人間」という言い方の代替案を日本語で考えてみる。
すると、実はこれが案外難しく、極めてニュートラルな(すなわち、先輩、後輩、恋人、友人、同僚、家族 etc…のような、「ヒトである」以外の追加の情報を相手に与えない)人称代名詞というものが見当たらないのである。

たとえば、「彼は〜な先輩です」のような言い方では、続柄を示してしまっているし、「〜な男だ」のような言い方では「男である」という余分な属性を提示していて、好まない。

続柄は話題に余分なcontextを加えるし、性別を使った人称代名詞も、本人に尋ねるまで不明確であることはいうまでもない。[1]

唯一使えるとしたら「人」(ひと)なのだけれど、おれは自分も他人もどのくらい「ひと」なのかに自信がない。homo sapiensだけれど、ひとである感覚がないヒトというのは、案外いるものだ。

そんなわけで、ひとまずは種としてのhomo sapiensと、その言い換えをなるべく使おうと思っている。

と言いつつ、なんとなく流れで「人」(ひと)を使うことも多いので、自己矛盾、単なる逆張りでは?と言われると、そうかも?とも思うが、それはそれでいいじゃないか。

言葉遊びは、楽しい。


  1. そして、私はその必要に迫られない限り人に本人の性自認は尋ねない。余分なcontextだから。 ↩︎