【結局】普通自動車免許を取ることにした

人を殺したくないので取りたくない−−高校卒業後、そう言い続けてはや3年、結局免許を取ることにした。

直接的なきっかけは、以前まで「あんた免許とらんの?」だった親の発言が、2023年の正月の帰省で「あんた免許とりや」に変化したことだが、実はそれ以前から機運の高まりというものはあった。

私がかねてより冒頭の主張を続けてきたことについて、こんなblogをわざわざ読みにくる身内各位の中にはご存知の方も多いだろう。
ここでは、私が結局なぜ普通自動車を運転できるようになることにしたかを記録しようと思う。

#運転したくない

免許取得の話に入る前に、予備知識として、なぜ私がこれまで免許取得を渋ってきたかについて述べておこう。
理由は、大きく2つある。

  1. 人を殺したくない
  2. めんどくさい

−−こうも明快な話もそうない。

まず、一つ目について。自動車は自分の力を超えて動作する機械である。 [1]
そして、その力を統べ損ねて今週も人が死んでいる。自身がその当事者となる可能性がある機械を操作することに積極的になれるほど、私は勇猛ではない。
特に私は注意資源が不足しがちな人間である。私が動かしていい鉄塊とは思えない。

例外があるとすればサーキットと自動車専用道路であろう。彼らは自動車に自分ですすんで乗っている人々で、私は彼らを事故があれば死ぬ覚悟があるものと看做す。
しかし、それ以外の公道には、歩行者がいる。歩行者すべてに死ぬ覚悟は現状の制度では要求されないし、ましてそうなるべきとも思わない。それらを受け入れないと外には出られない世界というのは、ディストピアである。[2]

そして2つ目であるが、単に面倒なのである。クリックしてクレカ番号を入れれば終わる応用情報技術者試験のWeb申し込みですらできずに2年を過ごした人間である。
申し込みというのはあまりにも面倒だ(し、私はそれが下手だ。)。それをするなら、パソコンをしたい。当然の帰結だ。私のqueueには、やりたいパソコンタスクが山積している。[3]

#機会損失

前節のような思考の末、免許をとらずに学部生としての2年間を過ごしたのである。
しかし、流石に2年も経つと、考えにも変化があった。

やはり(特につくばや、地元のような地方都市においては)自動車がないことによる機会損失というのは相当のものである。

ここで言いたいのは、自動車がないと暮らせないという話ではない。「つくばは自動車がないと暮らせないよ」−− そう主張するOBも多いが、これは2023年時点では誤りである。
Amazonがあり、TXがあり、バスがあり、自転車がある。それで生活にはあまりにも十分である [4]

ところで、私の父はLINEを使わない。あまり詳しく聞いたことはないが、どうも彼なりのポリシーでそうしているようである。
そのポリシーで、彼は生きている。別に生きられるだろうと思う。
しかし、それは彼が彼の世代、彼のコミュニティで生きているからで、今私がLINEのアカウントを完全に消し去れば、きっと人々は困るし、私もすぐに生活に影響が出そうである。
高校生当時に、クラスLINEに参加できない状態になっていたら、私はきっと課題を落としていたし、まともに文化祭にも参加できていなかった。そんな話である。

これは、LINEがすぐれたアプリだからではない。その優劣に関係なく、それが使われ、それを前提とした社会に生きる以上、それを使わないというポリシーによって被る機会損失があまりに大きいのである。

ひるがえって、自動車について考える。
東京都心のような優れた高密度な公共交通網がある都市を除いて、(特に、愛する滋賀県を念頭におけば)自動車を前提とした社会が、私の生きる社会であるようである。さすれば、その自動車に乗らないというポリシーは、自分からゲームを難しくする害である可能性がかなりある。

そんなことにB2の夏あたりから気づき始め、「そろそろ免許取るかねぇ……」と考え始めた。免許を取ることで、各地の図書館に訪れることができる。資材を輸送できる。琵琶湖やその他の交通機関が壊滅的な(しかし親は見せてくれ、私の人生の上で価値となっている)場所を友人たちや次世代の人間たちに見せられる。
必要とあらば、人を病院まで送り届けられる。

#人を殺す方法は、他にもある

機会損失について考えているうちに、「めんどくさい」から免許を取らないという思考は徐々に薄れつつあった。「めんどくさいけど」取ろうかな。

とはいえ、これは私が自分だけの人生を有利にするために思っていることであって、「人を殺したくない」という気持ちに勝つには甚だ不足である。
だから、「取ろうかな」である。「取ろう」とはまだ思えなかった。そんなまま、一年弱が経過した。

あるとき、気づいた。人を殺せないのか? −− 当然、偽である。手元には包丁があり、そしてそもそも、自転車に乗っている。
さて、ここで自動車を特別扱いする理由は……? 自分を超える力が出るから? では手元の電動工具たちはどうなる……? ガスコンロやライターは……
そう考え出すと、もう自動車を特別なものとする理由はなくなっていた。

工具たちを手放すかといえば、当然そんなことはない。工具たちを見れば「人はこうやって自分の力を超えるものを統べることで文明をやってきたんだなぁ」と思う。
それと同じことである。

−− 結局、リスクをどれだけ最小化し、その上でそれを受容することで、恩恵を受けるのである。[5]

#いざ、教習所へ

そんなわけで、免許の取得を決めた。coinsの学友たちから大学周辺の教習所情報を聞き出し、申し込んだ。SecHack365もある中で正直何考えてるんだろうと思ったが、早い方が良いと思った。

そして、教習がはじまった。
こうして褒めてくれる学友たちには感謝しかない。私は本当に人間の運がいい。[6]

教習中には左右盲も発動し、坂道発進むずすぎw [7] などと言いながらもなんとかやっている。自分は運動神経がよくない割に機械には並の人間よりは詳しい方なので、「クラッチキープして!!」「論理的にはわかってるんだけどそのように体が動かないんす!!」とよく言っている。まったく面倒な教習生だろうと思う。

#仮免試験を終えて

仮免試験を終えた。正直みきわめ[8] ではかなり不安があった。 やはりMTは減速するとエンストが脳にチラついて怖いなとまだ思っている。 とはいえ、なんとか一発で合格することができた。

おべんきょうは世の中的には得意な方[9]なので、普通に合格できた。
難易度としては、AP以上SC以下だと思う。

これから世の中の道を走るらしい。世の中の皆様におかれましては、よろしくどうぞ。

#まとめ - 返納を見据えて

昨年、祖父が免許を返納した。幼児期には、訪れるたびに彼の運転する車に乗せてもらったこともあり、感慨深い思いだったが、同時にかなり尊敬した。
自分の能力を正しく評価するのはかなり難しいと思っているからだ。

医療の発展を考慮すれば、私もきっとこのまま健康生活を送れば彼と同程度には生きるんだろうと思う。[10] そう考えると、彼の年齢くらいで返納するというのを、脳内でなんとなく思い描いておくと良さそうである。2世代で認知機能の衰弱のスピードがそんなに変わるということもなかろう。[11] マイルストーンをおいてくれた祖父には感謝するばかりである。

さて、ここまで書いてみてから、このblogは従来敬体で書いていたことを思い出した。 もう常体でここまで書いてしまったので、このまま出そうと思う。 一つ言えることとすれば、免許取得に関しての私の心もちは、おおよそ常体で書きたくなるようなものである、ということである。


  1. あるいは、つくばから栗東まで家具を担いで7時間で移動できる人にとっては、そんなことはないのかもしれないが。 ↩︎

  2. 実のところ、現状ある程度歩行者に自動車の都合から制限が設けられているのはご存知の通りである。これは歩行者も自動車の恩恵を享受しているので受け入れるべき、とも言えよう。とはいえ、やはり野性の動物であるところの人間が自由に歩行することをやたら制限するのは筋違いである。 ↩︎

  3. 実際、最近は全然パソコンタスクができていない。正直SecHackの進捗がまずい。 ↩︎

  4. パソコン業で一定の収入があるからこれができているという面はもちろんある。 ↩︎

  5. さて、原発はどうなるだろうか。 ↩︎

  6. これもLINEを使う良さかね? ↩︎

  7. そう、MTである。機械として面白くないと、自分のモチベが上がらない気がした。 ↩︎

  8. 非免許人間に説明すると、仮免試験や卒検の直前の教習(つまり最後の「練習」)で、これまでの一通りの操作が身についているかを確認する回が「みきわめ」である。名前がかわいすぎてよくわからん。 ↩︎

  9. こう言うとかなり謙虚さに欠いた発言に見えるだろうが、筑波大生はみな世の中的にはおべんきょうは得意な方なはずである。 ↩︎

  10. 私にはオタクにありがちな希死念慮もそんなにないし、かつての祖父のように喫煙や飲酒を頻繁にするわけでもない。 ↩︎

  11. これは種としてのはなし。もちろん私個人と祖父個人を比較すれば私が突然認知機能に支障を来す可能性はありうる。 ↩︎